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職人の人選は大工から

具体的に職人の人選に入る。木造である限り、工事の要は大工である。賃貸アパートを抱えたこの規模になると、大工だけでも毎日四名から六名は常駐となる。その中でも中心人物は、SE構法の研修も終了した清水棟梁に決めた。もう60歳を超えているが、腕も人柄も申し分がない。まだ6年の付き合いだが、常に私の意図を汲んで仕事を進めてくれるのが信頼に足りる要因だ。私が現場に出向くと、最初に必ずノートに記した質疑があり、その後も私の「もういいですよ」の声を聞くまで一切仕事はしない。

大工は通常「坪いくら」で請け負っている。黙々と仕事をこなし、一日も早くこの現場を終えたいと思うのが人情だ。現場は時間との戦いなのだ。その意味ではこの清水棟梁には打算が無い。現場での変更が多い私のやり方を見抜いているのだろうか。私の一言をも聞き漏らさないで、やり直しを極力少なくする意図もあるのかもしれないが、とにかく私が帰るまで仕事をしないで指示を待っている。こんな棟梁は珍しく、私としては絶対の信頼をおいている。やや高齢なのが惜しいかな。

もうひとりの大工は、遠路四十キロ離れた八王子市在住の土屋棟梁を選んだ。
会うのは私の結婚式以来になる。この大工は私よりわずかに年上だが、私が社会に出て最初に出会った大工だった。ハッキリものを言う人で、当時は少し怖かったが、同じ工務店にいた七、八名の同僚の中では、この駆け出しの私にも分かるほど出色で、腕も頭も顔つきも良かった。

想い出話をひとつ。大学院を終了して最初に勤めた会社で、ようやく注文住宅の設計を任された際、私はある雑誌に掲載された出窓の写真を見て気に入り、そのまま設計に取り入れたいと考えた。ガラスとガラスが垂直に交わる斬新な形態で、写真を見た施主も大賛成だった。しかし、卒業したての青ニ才に詳しい設計図など描けるわけがない。確か、間取り図に窓の印を書いておいて、その横に「ガラス突きつけの出窓とする」と書き足しただけだった。実に乱暴な設計士だったと思う。

ところが幸か不幸か、その現場が土屋棟梁の担当となった。現場監理に出向いた私は、突然この出窓の作り方を聞かれて困った。杉とヒノキの区別もつかない当時の私に指示など出来るわけがない。

「大学出はこれだから困るべ。ちゃんと勉強して図面に書いてくれよな」
土屋大工は諭すように言った。

若僧の私は悔しかった。この日から「理論より実践」と頭を切り替えた。多分、上司か先輩の設計士に相談したのだと思う。出窓の仕組みを理解し、やっと図面らしきものを書き上げて現場に届けた時には、既に出窓はあの写真の通りに出来ていた。
「ちょっと手間取ったけど、これでよかんべ」(八王子あたりの方言か)

さらに造作材はヒバだと聞いた。白木の光沢が美しかった。

その後、会社の発展とともに徐々に私の仕事はビルの設計へと向かう。いっしょに仕事をする機会は少なくなったが、よきライバルとして、また建築の師匠として常に頭の片隅に彼は居た。あれからもう二十年以上の歳月が経っていた。

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