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(余談)私とホテルとの出合い

余談だが、私とホテルとの出会いはこうだった。あのトイレットペーパー騒ぎで記憶に残る昭和49年のオイルショックの数年後。ロクな就職先も無く、大学院修了と同時に泣く泣く、腰掛の気分で就職したのが、東京都立川市の建て売り会社。社員15名。社長が地元の名士と聞いて決めた。

やがて入社3年目にして社内に分離独立運動が勃発。私は過激派の営業部長率いる7人と共に、さらなる飛躍を目指して新会社設立の一角を担うことになった。保守派の「ここに残れば充分食っていけるのに・・・」
と言わんばかりの冷ややかな目線を背中に受けながらの旅立ちだった。

しかし、その会社が十年も経たない間に、社員数六百余人の大会社に急成長したのだから人生アンビリーバブル。

とにかく、各自のなけなしの貯金を掻き集めて、若造7人で興したこの会社。手間ヒマがかかる割に収益が少ない個人住宅の供給に見切りをつけ、いち早くマンション事業にシフトして業績を伸ばしていく。そのうち銀行筋から都心の一等地でホテル事業をやらないかと勧められた。慌てたのは設計担当の私だけではない。当時三十歳チョイの千葉社長、頭の回転は驚くほど早く、しかも雄弁。カリスマ性すら漂っていたのだが、北海道から単身上京してから苦労の連続。もちろんホテルを利用する機会など皆無だった。

「よしっ、一から勉強するぞ。誰か海外に行ったことがある奴はいるか?」
そう言い放った千葉社長、次の週にはニューヨークに飛んでいた。

当時は、まだ海外旅行が普及し始めた頃。私以外、渡航経験者は居なかった。学生時代のケチケチ貧乏旅行が役に立った訳だ。こうして私は、ただ独身生活が長く、他の社員より身軽だったことも手伝って、秘書を兼ねて頻繁に欧米の高級ホテルを泊まり歩く機会に恵まれたのだった。それも決まって一泊数十万円のスウィートルームにである。いつも社長といっしょ、というハンデを差し引いても、実体験をもとに得たホテルの知識は大きな財産となった。人間、何が幸いするか分からない。

「百聞は一見にしかず」
泊まるたびに毎回「目から鱗」だった。何事もそうだが、最高を知れば、下のクラスは概ね察しがつくというもの。ホテルに一度も泊まったことの無かった若い社長とひよっ子設計士は、その後数年間に、なんと十ヶ所以上のホテルを実際に誕生させてしまった。その時の経験と自信は、後日独立してからも、継続してホテル建築に関わってこられた原動力になっている。そんな経緯から、今日では著名な外人デサイナーとも対等で仕事が出来ることを思うと、あの時、世界的レベルで勉強の機会を得た私は、実に運が良かったと言える。

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