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「研鑽」

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事の始まりは、生徒たちを乗せた観光バスが、遠足を終えて帰校した際、誤って正門に触れ、片方の石柱が倒れて折れてしまったことだった。

当時、岐阜県可児市立今渡南小は、創立百周年を間近に控えた伝統のある小学校だった。そして、この事故の後、校長先生は、「長い間、毎日生徒を見守ってくれた門柱を処分するのは忍びない」と、これらを校庭の片隅に並べて記念碑にしたいと考えたらしい。

それを聞いて、当時PTAの会長役を引き受けていた私の旧友が「それでは墓石と同じ」と押しとどめ、何を思ったか東京に住むこの私に相談があった。
確かに建築は得意でも記念碑までは、と躊躇したが、生まれ育った郷里への想いが勝り、アイデアの1つをスケッチにして返送したのだった。

無残に割れた御影石の残骸の写真を毎日眺めていたら、少々大げさな言い方をすれば、ある日突然、神の使いが降りてきた。この感覚は、ちょうど建築の構想を練る時と同じだ。条件を整理して、ペンを持った手を動かしながら思案に思案を重ねていると、突然、思いもよらぬアイデアが脳裏に浮かぶことがある。それに近い。

写真を見て頂こう。左端の苔むした石の塊(割れた残骸のひとつ)は、純粋無垢な子供達である。真ん中は何となく四角と丸の形になりかけた、少しばかり人の手が加わった石の塊。学校で学ぶ児童達である。そして右端の磨き上げられた真四角の塊とまん丸の球が、個性豊かに成長した生徒達を現している。

叩いて、削って、磨いて。愛情あふれる教育によって、見事に光り輝く青年になっていく。この過程を、分断された三個の石柱を再利用して形にしたモニュメントは名付けて「研鑽」。今から二十年も前の作品である。

久しぶりに、あの時の旧友と再会する機会が訪れた。
「おい、小学校の担任の渡邊栄子先生覚えているか」と奥村君。
「もちろん、多感な時期に、一番お世話になった先生よ」と私。
「だったら会いに行こうよ。どうせなら、俺たちで提案したあの石碑の前で。記念撮影もいいかもよ」

なんと、五十年ぶりに再会した栄子先生は、半世紀も前の教え子の名前を次々に繰り出す。先生とは、こんなものなのか。僕らは顔を見合わせて驚いた。
栄子先生は背丈が少し低くなっていたが、色白で、キラキラとした瞳が、あの時のままだった。

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