水槽の森
「ポルトガルに行っておけば、ヨーロッパのすべての国を踏破したことになる」そんな不純な動機から思い立った今回の旅行を後押ししたのが、首都リスボンにある巨大な水草水槽(ネイチャーアクアリュウム)の存在だった。
全国路地の街協議会に所属する私は、数年前、その会が主催する入間市のジョンソンタウン見学会からの帰り道、ふと立ち寄った熱帯魚の店で一つの大きな水槽に目が留まった。メダカのような小さな魚がほんの数匹片隅で泳いでいるものの、水槽の中は色とりどりの水草で満たされ、かすかな水流に揺らいでいた。
興味深げに見入っている私に、店主は分厚い一冊の写真本を差し出し、気前よく「持っていけ」と言う。そこには熱帯魚というよりは、世界各地の水草を水槽の中に再現した、まさしく「水草による盆栽」たちの競演があった。巻末には、水槽やろ過装置の一覧表が掲載されていたので、おそらく営業用のパンフレットを兼ねているのだろう、とにかく立派な写真集の体をなしている。
この世界の第一人者、天野 尚氏は、競輪選手から自然写真家となり、世界各地を駆け廻るうちに熱帯雨林などの水面下に展開する多彩な水草の群生に新たな価値を見出し、水槽に再現する試みに人生を賭けることになる。そういえば、スカイツリーの足元にある隅田水族館で最初に面会することになる水草の水槽の数々は、この天野氏の作品なのだそうだ。
かつて、ブリザーブドフラワーに凝っていた妻の強引な誘いで、新潟市にある天野氏のアトリエ兼ギャラリーを訪ねてみることになった。上越新幹線の燕三条駅から車で数十分、田園風景の中に忽然と現れたコンクリート打ち放しの立派な建物は、まるで安藤忠雄作品のようで、氏のセンスの良さがうかがえる。
盛り塩のある入り口を奥に進むと、大型の水槽が所狭しと並んでいる。その奥には研究所も併設されているようだ。一通り天野ワールドを堪能してから何冊かの風景写真集を購入した。そこには、厳しい環境にあればこその自然の美しさが切り取られていて、写真家としての技量の他に、根底にある仕事への「半端ない」情熱が伝わってくる。
私の事務所では、このところ個人住宅以外にも、福祉施設や病院、企業の関連施設など、大型物件の設計監理の仕事も増えている。どこかでジョイントできないものだろうか、と期待が膨らむ。しかし、そんな思いはすぐに打ち消されてしまった。氏の存在を知った頃、なんと志半ばで病に倒れ60歳の若さで他界されてしまった。そしてポルトガルでの仕事が遺作となったらしい。
リスボン海洋水族館は、市街地から少し離れた大西洋を望む湾内にあり、そこだけ賑わっていた。水草のコーナーは入り口を過ぎて最初の展示室にある。端から端まで40mはあろうか、巨大な横長の水槽に、まさしく天野ワールドが展開する。名付けて「水槽の森」。その規模と美しさにしばらくの間、興奮が冷めやらない。展示コーナーの出口付近に天野氏のインタビュー映像が繰り返し流れていた。その肉声に耳を傾けながら、しばし黙祷をささげた。