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鮨通の独り言

私が鮨屋通いを始めてもう三十年以上にもなる。最近になって、そのことが周囲の人たちの間で話題になり、お勧めの店はどこかと聞かれたりする。家族は「唯一の趣味だから仕方ないよね」と意外に寛大のようだ。子供たちが幼い頃は、寿司屋に行ってもテーブルに座り、メニューを見て盛り合わせを注文することが多かった。松竹梅とか、上とか並とか、出されるネタによって呼び名が変わる。予め、値段も決まっていて比較的安価な点では、仮に住宅に例えるとすると「建売住宅」とでも言うべきか。

やがて何度か通っていると、カウンターに座り、目の前にある大きなネタケースを覗きながら「この赤身」とか、「あのエビ」とか、店の主人に直接注文できるようになる。時折、ネタケースがない寿司屋では、主人の背後の壁に掛けてある魚の品札を見て、好きなものを注文することになる。ある程度慣れてくると、ネタそのものを見なくても魚偏の難しい文字が読めるようになり、「そのサヨリから握って」などと言えたりする。とにかく、自分の好みでネタが選べるわけだから文句はない。盛り合わせよりは大いに満足感があるのは至極当然。お決まりの「建売住宅」から、さしずめ「注文住宅」に昇格したと言えようか。

ところが、多くの寿司屋の中には、ネタケースも背後の品札なども一切なく、もちろん松竹梅などのメニューも置いていない妙な店がある。あるのは、ヒノキで作られた白木のカウンターと大きなまな板、そして主人の前にある数本の包丁だけ。もし間違って、このような鮨屋に入ってしまったら黙って立ち去るしかない。しかし、覚悟して入店した際には、自分から注文を出すのは最小限にとどめたい。とりあえず苦手なもの、お腹の空き具合、それに好みのお酒程度で十分。あとでそれが得策と分かるはずだ。確かに料金は、ある程度事前に知っておいた方が落ち着くので、遠慮なく電話で聞いておくことをお勧めしたい。

さて、その後は、黙って主人に任せておくのが、こうした鮨屋の醍醐味なのだ。主人は、予約してくれた今夜の客のために、夜明け前から市場に出向き旬の魚を目利きする。江戸前鮨では、敢えて数日間熟成した頃にネタにすることも少なくないが、いずれにせよ旬の魚が美味しいに決まっている。

(旬を知らない) 客の要求に合わせて握る寿司屋では、旬であろうとなかろうと、一年を通して注文の多いネタを常に用意しておかなければならない。とすれば、冷凍ものが多くなるのは必然だ。これをまた住宅の分野に例えると「大手ハウスメーカー」がこのタイプ、とまでは言い切れないが、似ている所も多いように思われる。いくら加工技術が進歩しても、総じて冷凍より旬のものが美味しいのは否めない事実だろう。

市場から帰ると、主人は早速仕込み仕事に取り掛かる。昨夜は客が引けてから店の掃除を丁寧にしていたので、ほとんど眠っていない。仕込みを終えると既に正午を廻っている。遅めの昼食のあと、軽く睡眠をとったら夕方6時の開店が待っている。客席は平均7席。酒が伴い、ついつい客の滞在時間が伸びていく。二回転はしないのだから、売り上げも頭打ちで、儲かるとはほど遠い世界である。現在、私が通うのは、決まってこういう店だ。そもそも私が鮨店に通い始めたのは、美味しさの中に感動を見つけることができるからだ。その感動は、営業時間外の地道な努力に裏打ちされている。それに気づいてから、鮨屋通いは私自身の創造への意欲を喚起する活力源となっている。

暖簾をくぐって外に出る。再訪を心に決めた今夜の鮨店をふと想う。今日の主人は、十年後もきっと同じ場所で愚直に鮨を握っていることだろう。脇には白髪の増えた女将さんが相変わらず控えめに寄り添っているに違いない。鮨職人の修業は辛くて長いから、これから新たにその道に挑戦しようとは思わないが、もし仮に私が鮨屋の主人になるとしたら、やはりこうした店がいい。「注文住宅を超えた注文住宅」を心掛けている私の信条と何か共通点があるように感じているからだ。

このコラムを読んで、経理担当の妻が言う。
「希望だけ伝えて、あとはお任せなんて、そんな度胸のあるお客さんは、ほんの一握りでしょ。それを待っていたら、クウェストはすぐに潰れますよ。ご縁のあったお客さんに全力で対峙すれば、それでいいのよ」

写真は二十歳を過ぎた娘からのXmasプレゼント。中トロ握りを模した枕カバーなんだそうだ。バカヤロウ、泣けてくるじゃないか。

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